ハイブリッドシステムの搭載は2024年まで延期となった。現行の2.2リッターV6ツインターボエンジンは来シーズンいっぱいとなり、2024年からはエンジンも2.4リッターV6ターボとなる。ただ、新規定エンジンはともかく汎用ハイブリッドシステム搭載がインディーカーの発展にどう寄与するのかは不透明だ Photo:Penske entertainment |
インディーカーのハイブリッド・パワートレイン使用は
1シーズン遅らせて2024年から
3月3日、インディーカーは世界で続いているサプライ・チェーンの停滞を踏まえ、NTTインディーカー・シリーズへのハイブリッド・パワートレイン導入を1年遅らせ、2024年からにすることを発表した。ハイブリッド化関連部品の一部に必要なだけ調達が難しいものがあると判明したのだ。
現在ホンダとシヴォレーが開発中の900馬力以上の大パワーを発生させる2.4リッター・ツインターボV6エンジンのデビューも2024年になり、現在使われている2.2リッター・ツインターボV6エンジンでの戦いが2023年シーズン終了まで続けられる。
すでにホンダとシヴォレーはエンジンの開発を終了させており、3月30、
31日にインディーカーはそれらのエンジンとハイブリッド・システムと組み合わせてコース実走テストを開催する。場所はセブリング・インターナショナル・レースウェイ。
カーペンター、今年もオーバル全戦エントリーに Photo:Penske entertainment |
エド・カーペンターの出場レースがオーヴァル全5戦に変更
現在唯一人となっているチーム・オーナー兼ドライヴァーのエド・カーペンターが、”今年はインディー500だけ”としていたレース計画を変更し、昨年までと同様にオーヴァル全戦に出場すると発表した。第2戦テキサスが今シーズンの彼の最初のレースとなり、インディー500、アイオワでのダブルヘダー、そしてゲイトウェイでも走る。
今年はエド・カーペンター・レーシングのエース・ナンバーである「20」を纏ったマシンをコナー・デイリーにフル・シーズンで委ねているため、カーペンターは新しいカー・ナンバーが必要になり「33」を使うことと決めた。彼の誕生日が3月3日(41歳になった)で、インディアナポリス500でのポール・ポジション獲得が3回、インディーカー・シリーズでの優勝も3回……と「3」に多くの縁があるので3月3日の午後3時33分に新出場プランは発表された。
カーペンターは少年時代からの夢であるインディー500優勝を目指し、来る5月に19回目の挑戦を行う。これまでのベスト・リザルトは2018年の2位。昨年は5位だった。
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ダニー・オンガイス逝去
USACとCARTのインディーカーとNHRAのドラッグレースで活躍したハワイ出身ドライヴァー、ダニー・オンガイスが2月下旬に心臓の疾患により亡くなった。79歳だった。
ドラッグレースの世界ではファニーカー・クラスでチャンピオンになり、トップ・フューエル・クラスでも好成績を残したオンガイス。彼はユタ州ボンネヴィルのソルト・フラットでのスピード・トライアルでも数々の記録を打ち立てた。
ドラッグレースのキャリアを終え、オンガイスはF5000でオープンホイールの世界に入った。そして、76年にはインディーカー・シリーズに参入。フル・シーズン初年度だった1977年に早くも1勝(ミシガン・インターナショナル・レースウェイ)を挙げ、翌1978年には5勝を挙げてUSACシリーズ・ランキング8位となった。翌年はCARTシリーズで走り、優勝はなかったがキャリア・ベストとなるランキング6位となった。
ダニー・オンガイス1942-2022♰ Photo:Penske entertainment クリックして拡大
ドラッグレースでその名を轟かせた後にインディーカーでも好成績を挙げたオンガイスは人気は”フライング・ハワイアン”、”オン・ガス”などのニックネームで親しまれる人気ドライヴァーとなった。インディー500には11回出場し、4回のトップ10フィニッシュを記録。ベスト・フィニッシュは1979年の4位で、その前年の1978年には予選でチーム・ペンスキーのトム・スニーヴァとリック・メアーズの間に割って入る2位となり、フロン・ロウ中央のグリッドを獲得した。
カテゴリーを選ばず挑戦し、活躍したのがオンガイスのキャリアだった。彼を支えたのはテッド・フィールドという映画プロデューサーなどの仕事をしていた人物で、彼の創設したインタースコープ・レーシングでオンガイスはF5000、インディーカー、そして、77年と78年にはF1グラン・プリに出場した。77年のカナダGPでオンガイスは7位に入っている。1979年にはスポーツ・カーのビッグ・レース=デイトナ24時間にポルシェ935で出場し、ハーレイ・ヘイウッド、そしてパートナーのフィールドとのドライヴで優勝した。Photo:Penske entertainment クリックして拡大
インディアナポリスとミシガンの両高速オーヴァルで大クラッシュをしながらドライヴァーを続けたことでもオンガイスの名は知れ渡った。彼は1987年にチーム・ペンスキーからインディー500に出場することとなっていたが、プラクティス中にクラッシュして脳震盪を起こし、レースに出場できなくなった。チームは彼の代役にアル・アンサー(昨年末に他界)を起用。するとアンサーはAJ・フォイトと並ぶ史上最多の4勝目を飾った。
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1996年、予選でポール・ポジションを獲得したスコット・ブレイトン(チーム・メナード)がその後のプラクティスで事故死した時、チームはオンガイスを代役に立てた。当時54歳になっていた彼にとって1986年以来となるインディー500出場だったが、最後尾スタートから7位フィニッシュをしてみせた。その2年後、オンガイスはインディー500にエントリー。しかし、予選通過は叶わなかった。
以上
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