2022年3月30日水曜日

2022 INDYCAR ジャック・アマノのインディーな1日:アドリアン・フェルナンデス訪問

フェルナンデスのオフィス兼サロンの中のミュージアムフロアで記念のツーショット! それにしてもすごい展示だ Photo:Masahiko Amano クリックして拡大

 マイアミでフェルナンデスと久々の再会

  開幕戦セイント・ピーターズバーグで超久しぶりにアドリアン・フェルナンデス=インディーカーで11勝したメキシコ出身ドライヴァーに会った。
 アドリアンといえば1992年、初オーヴァル・レースだったフェニックスの1マイルでいきなり優勝するセンセーショナ・デビューをインディー・ライツで果たしたメキシカンだ。
 彼を1993年にインディーカーへとステップ・アップさせたのは、その前年にオリジナル・シャシーでインディー500を制したばかりのギャレス・レーシング。しかし、強豪はそこから急速に戦闘力を失ったため、3シーズン在籍したがアドリアンは勝つところまで行けなかった。

フェラーリの後ろの壁には、現役時代の写真がずらり! このフェラーリは展示用ではなく、自動車用のエレベーターを使って、地上に下ろして実走しています Photo:Masahiko Amano クリックして拡大

初開催のインディージャパンで優勝!

1996年、アドリアンはタスマン・モータースポーツ・グループに移籍した。インディー・ライツでタイトルを連覇した彼らは95年からインディーカーにステップ・アップし、同時にホンダ・エンジンでフル参戦する唯一のチームとなった。2年目のホンダ・エンジンは大きく進歩し、シーズン後半にアンドレ・リべイロ、タスマン、ホンダの全員にとっての初勝利がニュー・ハンプシャーで達成された。その翌年にアドリアンはチームに加わり、最初のシーズンにトロントで初優勝を飾った。
 

1998年にもてぎで初開催されたバドワイザー500の優勝トロフィーと副賞の兜。これ以外もトロフィー類はすべてそろって展示されています Photo:Masahiko Amano クリックして拡大

 アドリアンはテカテ・ビールやクェイカー・ステイツ、テルメックスなどのメキシコ企業群から強力なバック・アップを受けていた。しかし、タスマンではその持ち込み資金量に見合わない待遇を受けたため、さらに上を目指していた彼は1998年、名門パトリック・レーシングへと移籍した。
 フォード・エンジン使用のチームへ移って最初の年、日本のツインリンクもてぎで初開催されたインディーカー・レース(当時はCARTシリーズ)=バドワイザー500Kでアドリアンは優勝した。彼は翌年のもてぎのファイアストン・ファイアホーク500Kも勝って(レイナード99I/フォード)、日本でもその名を知られるようになった。

2001年にトム・アンダーソンとチーム結成
その後IRLにスイッチし、スーパーアグリ・フェルナンデスレーシングに


 アメリカのトップ・オープン・ホイールで大活躍したアドリアンは母国メキシコのナショナル・ヒーローとなった。今の日本でいう大谷翔平か、それ以上の存在となっていた。頻繁にメキシコに帰って精力的にPR活動を行ったことが、彼の人気を高め、メキシコでのインディーカー・レース開催まで実現した。

フェルナンデス・レーシング時代。中野信治とともに Photo:Masahiko Amano クリックして拡大

 アドリアンをサポートしていたスポンサーたちは、”自分のチームを持ったらどうか”とオファー。アドリアンは2001年シーズンに向けてチームを興した。チップ・ガナッシ・レーシングでマネジャーを務めていたトム・アンダーソンを共同経営者とするフェルナンデス・レーシングはホンダとの協力関係も深いチームとしてスタート。彼らはレイナード・シャシーを採用し、初代のチームメイトには中野信治を迎えた。その後、IRLにスイッチする際、フェルナンデス・レーシングは鈴木亜久里のチームと共闘体制を敷き、ロジャー安川、続いて松浦孝亮を起用した。

アキュラでIMSA LMP2にも参戦
メキシコ開催NASCARネイションワイドにも出場

 2007年、フェルナンデス・レーシングはホンダがアキュラ・ブランドで参戦を始めたIMSAのLMP2カテゴリーにオーナー兼ドライヴァーとして出場。2シーズン目にはドライヴァー、エントラントの両シリーズ・タイトルを獲得した。”大統領より知名度も人気も高い”と言われたアドリアンはNASCARのセカンド・シリーズがメキシコ進出をした際にはシヴォレーの強豪で当時のシリーズ・ナンバー・ワンだったヘンドック・モータースポーツのマシンで出場を果たした。

1999年の第23回インターナショナル・レース・オヴ・チャンピオンズでのカット。ちなみにこの時の優勝はデイル・アーンハート Photo:Masahiko Amano クリックして拡大

 その後、アドリアンはスイスに移住。ヨーロッパではル・マン24時間レースにザイテック・エンジニアリングのLMP2マシンで出場してクラス2位フィニッシュし、続いてアストン・マーティンのワークス入り。LMP1はマシンがついに成功しなかったが、2012年にはGTEプロで3位フィニッシュ。伝統の耐久レースでもアドリアンは表彰台に2回も上っている。

デイトナでのMSHFセレモニー取材後
ビジネスで成功した彼をマイアミに訪ねることに

5階建てのビルの4階と5階がアドリアンと彼のパートナーたちのフロア。アドリアンのオフィスは4階に設けられている。ここも整頓が行き届いている。アドリアンいわく「デスクに紙を広げないことがポリシー」だそう Photo:Masahiko Amano クリックして拡大

 ……と、アドリアンのキャリアは実に華々しい。去年、彼とチームをやっていたアンダーソンから、アドリアンがアメリカに戻ってマイアミに住み、ビジネスで成功していると聞いた。その彼が今年の開幕戦に現れたので、自慢のミュージアム的オフィスを見せてくれるよう頼んだ。もちろん彼は快諾してくれた。
 ということで、テキサスでのシリーズ第2戦をオーランドウ界隈で延々と待つ間、NASCARデイトナ500と、モータースポーツ・ホール・オヴ・フェイム・オヴ・アメリカの式典の後、マイアミまで出かけることにした。
 片道260マイルの旅を始める朝にガソリンの値段が20セントも上がった。日本も値上げしてるんだろうか?
こちらはバー・スペース。高級ホテルなみです Photo:Masahiko Amano クリックして拡大

 オーランドウのラッシュ・アワーは避けたかったので、まだ暗いうちにスタート。約束の正午に到着するのは楽勝だった。アドリアンのオフィスはダウンタウンの南、高級住宅地のコーラル・ゲイブルズに近いところにあったので、辺りを見て回った。このエリアに来るのは10年ぶりぐらいだ。CARTシリーズ時代の1996年から佐藤琢磨がインディーカー・デビューした2010年まではマイアミの南のホームステッドでレースが開催されていて、この辺りによく来ていた。碁盤の目のように直交する道と適当に曲がりくねった道が混在する街並みは、道の両側に植えられた街路樹の成長ぶりに歴史が現れている。格式高いホテルや雰囲気のあるショッピング街も健在だった。この日の湿度は低めだったが、日中の最高気温は31°Cにもなった。
 

クルマ用エレベーターが備えた5階建てのビルには
フェラーリをはじめ100台以上の高級車がズラリ!


フェラーリの実車のボディを使用したレーシングシミュレーターが! Photo:Masahiko Amano クリックして拡大

シミュレーターの前方にはラウンドしたスクリーンが。走行状態に合わせて車体もロールやピッチングする仕組みだ Photo:Masahiko Amano クリックして拡大

  アドリアンに迎えられ5階建てのビルへと入った。3階までは自動車ディーラーにリースされていて、4、5階と屋上をアドリアンとパートナーたちの使用フロア。ビルの裏側に人間用のエレヴェイター1基と、クルマが乗れるエレヴェイターが2基あった。裏側にあるのは、それらがアドリアンたちの専用だから。エレヴェイターの扉は実物大のフェラーリF1のピットの写真で覆われていた。

屋上にはキッチンが設けられ、大人数でバーベキューなどを楽しむことができる Photo:Masahiko Amano クリックして拡大

 4階に着いたエレヴェイターが開いて……絶句。白いピカピカのフロアにフェラーリがズラリと並んでいたからだ。ガレージの扉がフェラーリF1だったのはこういう理由だったのだ。250GTOとかディーノなどの名車から、最新のハイブリッドものまで揃っていた。フェラーリだけではなく、ポルシェもかなりの数があった。コレクションのメインはフェラーリだが、ポルシェも959とか980カレラGTといった貴重な限定車が並べられていた。その数、軽く100台以上の超高級スポーツカー。自分と余りにかけ離れた世界なので数える気にもならなかった。土地が余っているアメリカだとはいえ、これだけの台数を一箇所に集めて、1台々々の間にゆったりとスペースが取ってあるところに驚いた。どのクルマもグルッと1周見て回れるようになっている。アドリアンもカー・エンスージアストだが、これらのコレクションは彼のパートナーたちのもの。これで全部ではなく、違う場所にまだあと20台だか30台あるらしい。

アドリアンのオフィスはまさに彼のレースミュージアム

こちらがアドリアンのオフィス。完全なミュージアムです Photo:Masahiko Amano クリックして拡大

 アドリアンのオフィスは4階の奥にあって、そこに彼のクルマも2台展示されていた。それらは彼自身がCART/PPGインディーカー・ワールド・シリーズで走らせたレイナード01I/ホンダと、インディー・レーシング・リーグを戦ったパノスGF09C/ホンダだ。その周りにはスロット・カーのコース、トロフィー、賞状、写真、ポスター、レーシング・スーツ、ヘルメット、時計……といった彼のレース・キャリアに関連する驚くべき数のグッズ類が整然と並べられていた。

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 CARTマシンはエンジンが見えるようカウルが持ち上げられていて、壁にマウントされたIRLマシンはインディアナポリス・モーター・スピードウェイの下にはレンガのスタート/フィニッシュ・ラインがペイントされていた。小さなグッズ類は、その数に合わせて専用のディスプレイ用ケースを作ったようだった。

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 インディーカー初優勝だったトロントのトロフィーは、クロゼットの中に置かれ、丸いガラスを通して見えるようになっていたが、その扉を開くとレーシング・スーツやチーム・シャツ、帽子、Tシャツなどがキチッと収納されていた。それを見て思い出した。もう20年近く前、アリゾナ州フェニックスの自宅を訪れた時に知った彼の綺麗好きさと、徹底的な整頓ぶりを。彼がちょっと外した隙に机の上のクルマの向きを少し斜めにしたら、戻って来てすぐそれに気づいて他のものと平行になるよう置き直していた。マイアミでは細部への拘りに磨きがかかっている印象を受けた。このミュージアム兼オフィスは数年前から使っているそうだが、計画やデザインには4年以上をかけたという。

「仕事は現役時代に思いきりやった」と語るアドリアン
彼の力を借りてのインディーカー海外進出再開に思いを馳せる

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  「仕事は現役時代に思い切りやった。今は不動産や飲食業に投資するビジネスをしているけれど、基本的には自宅にいて家族との時間を過ごしている。長男のサッカーの試合や練習を見に行ったり、娘の歌を聞いたり。レースをしていた頃は家族との時間てほとんど取れなかったから」とアドリアンは話し、携帯電話の待ち受け画面にしている奥さんと2020年生まれの息子の写真を見せてくれた。録音された娘の歌も披露してくれたが、お世辞抜きで上手だった。アドリアンの奥さんは女優やモデルをしていた人。エンターテイナーの血を受け継いでいるってことらしい。息子はサッカー選手を目指している。セイント・ピーターズバーグで会ったが、IMG入りも考えているぐらい真剣な様子で、レースには今のところ興味はないということだった。

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 アドリアンの物持ちや管理の良さに、ただただ驚かされた。子供時代に父親と楽しんだというスロット・マシンが当時使っていた専用の箱に整然と並べられていた。オフィスの戸棚に仕舞われていた箱を開け、「これが僕のレースのルーツ。いつも父親と勝負していた」と彼は言っていた。ポリカーボネイト製のボディはやや色が褪せてはいたが、50年とか前のものなにに今でも使えそうな感じだった。
 しかし、せっかくフェルナンデスが来ていたのに、インディーカーはなんでセイント・ピーターズバーグでそれを活用しなかったんだろう。パト・オーワードと一緒にいるシーンを用意するだけでメキシコや中南米に対するいいPRになったはずなのに。コロナの後は戦争……という状況下、インディーカーに海外志向がなかなか戻って来そうもないのは仕方ないことなのかも。
以上

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