2022年2月10日木曜日

2022 INDYCARレポート 2月9日:アンディ・グラナテッリ追悼

 

父アンディーの時代よりも濃い蛍光オレンジにペイントされたマシンのフロント・サスペンションに腰掛け、ドライヴァーと話すチーム・オーナー時代のヴィンス。その右胸にビュイックのロゴ!
市販車用がベースのOHV・V6エンジンは高ブースト圧が許されていて、時としてインディー500の予選で威力を発揮した Photo:(c)BorgWerner/Dan Boyd クリックして拡大

今振り返るアンディ・グラナテッリの挑戦

 インディーカー・シリーズで勝つチームを作る。それは非常に難しい挑戦だ。現在の最強チームであるチップ・ガナッシ・レーシングでさえ、初勝利までには5シーズンを要した。前身の強豪パトリック・レーシングはガナッシが共同オーナーだった1989年にエマーソン・フィッティパルディとともにインディー500で優勝し、シリーズ・チャンピオンにもなったが、ブラジル人ドライヴァーはマールボロ・マネーともどもペンスキー・レーシングへと移籍していった。

1968年のインディー500でポール・ポジションを獲得したタービン・カーの二世代目=ロータス56。アンディー・グラナテッリが亡くなった翌年の2014年、ジョー・レナードがレースでドライヴしたマシンにヴィンスが乗り、インディアナポリスのオーヴァルを走った Photo:(c)BorgWerner/Dan Boyd クリックして拡大

 先月亡くなったヴィンス・グラナテッリも、CARTインディーカー・シリーズへのオーナーとして参戦は、出場チームを譲り受けて果たした。1987年のことだ。そして、彼のチームは初年度から大活躍をしてみせた。2勝をマークし、チャンピオン争いに加わったのだ。しかし、インディアナポリスでのテストでドライヴァーのロベルト・ゲレロが大事故に遭ってしまった。シーズン終盤の3レースに出場できなくなっため、彼らのタイトル獲得の夢は潰えた。 

父アンディーほどではなかったが、ヴィンスも膨よかな体格で、父と同じく魅力的な笑顔の持ち主だった Photo:(c)BorgWerner/Dan Boyd クリックして拡大

  その20年ほど前の1969年、インディー500優勝とシリーズ・タイトル獲得をマリオ・アンドレッティとともに達成したのは、ヴィンスの父のアンディー・グラナテッリだった。オーナーとして、親子二代でのインディーカー・シリーズ制覇……がなっていたら、その後の歴史も大きく変わっていただろう。

最後の優勝となったペンシルヴェニア州ナザレスのビクトリー・レーン。アリー・ルイエンダイクと(1991年)Photo:(c)BorgWerner/Dan Boyd クリックして拡大

 ヴィンス・グラナテッリ・レーシングは、1991年には前年のインディー500ウィナーであるアリー・ルイエンダイクを起用し、フェニックスとナザレス、ふたつのショート・トラックで優勝を飾った。ペンスキー・レーシング、ニューマン・ハース・レーシング、ギャレス・レーシングといった強豪たちを向こうに回してのこの成績は高く評価されるべきだろう。

 ヴィンス・グラナテッリの写真をボーグウォーナーに提供してもらえたので、ここに紹介したい。

アンディー・グラナテッリのドライヴァーだった二人と、お揃いのSTPのレーシング・スーツを着て微笑むヴィンス。中央が1967年のインディー500でSTP・パクストン・タービン・カーで優勝目前までいったパーネリ・ジョーンズ。右は1969年にブロウナー・ホウク/フォードでインディー500優勝、シリーズ・チャンピオンにもなったマリオ・アンドレッティ Photo:(c)BorgWerner/Dan Boyd クリックして拡大



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