アル・ホルバート 1946年11月11日 - 1988年9月30日 Photo:TB Communications クリックして拡大 |
今から30年前、モータースポーツ界は一人の伝説的な人物=アル・ホルバートを無くした。IMSAGT/GTPで当時の最多となる49勝を挙げ、5度もチャンピオンとなった才能あるドライバーは、チーム・オーナーとしても辣腕を振るい、その後にはポルシェのインディーカー・プロジェクトをリードしたが、1988年9月30日、自ら操縦する飛行機での事故によりオハイオ州コロンバスで命を落とした。41歳という若さだった。
ホルバートはル・マン24時間レースで3勝し、デイトナ24時間レースで2勝、そしてセブリング12時間でも2勝という輝かしい成績の持ち主。Can-Amやインディーカー、さらにはストック・カー最高峰のNASCARウィンストン・カップにも出場した。
密かに開発が進められていたポルシェ製インディーカー・シャシー&エンジン Photo:TB Communications クリックして拡大 |
ポルシェ・インディーカーのプロジェクトの2年目での事故
ポルシェのインディーカーは、シボレー・イルモア・エンジンが有力チームに行き渡り、中堅チーム以下はコスワース・エンジンを使用、シャシーはマーチ、ローラとペンスキーがしのぎを削るという状況下でデビューした。1987年のことだ。カリフォルニア州モンテレイのラグナ・セカ(来年からインディーカー・シリーズ最終戦が開催されるコース)で行われたCART/PPGインディーカー・ワールド・シリーズ第14戦、ポルシェ製シャシーにポルシェ・エンジンを搭載したインディーカー、クェイカーステイツ・オイルがスポンサーの緑と白の2トーン・カラーのマシンは初めて世にその姿を現した。コクピットにはアル・アンサーが収まっていた。
続くフロリダ州マイアミでの最終戦では、ホルバート自身がドライビングを担当。このデビュー2戦は散々な結果に終わったポルシェだったが、翌1988年開幕戦からの彼らは着々と戦闘力を伸ばして行った。F1とインディーカー両方の経験を持つテオ・ファビがドライバーに選ばれ、シャシーはオリジナルに早くも見切りをつけ、マーチ88Cが採用されていた。ファビはベスト・リザルト4位(ナザレス)で年間ランキング10位につけた。しかし、勢いに乗りつつあったポルシェ・インディーカーはホルバートを喪失。1989年のミッド・オハイオで念願の初勝利を早くもマークし、90年にはジョン・アンドレッティを起用する2台体制を敷いたが、このシーズン限りで活動は終えられた。90年のベスト・リザルトはファビによる3位(メドウランズ)。ランキングはジョンが10位、ファビが14位。この年のチャンピオンは、ホルバートの下で経験を重ねたアル・アンサーJr.。マシンはローラ・シボレーだった。
あの事故がなく、ポルシェが参戦を続けていたら、シボレーとの戦いに勝利し、北米最高峰オープンホイールのトップに長く君臨していた可能性がある。
ポルシェに1年遅れて参戦を始めたアルファ・ロメオも1991年で撤退したが、1994年にはフォードが本格参戦を再開させ、ホンダも挑戦を開始。1996年にはトヨタが加わった。メルセデス・ベンツは1994年のインディ500にだけ出場した。アメリカン・トップ・オープン・ホイールはこれだけ多くの自動車メーカーが戦うことを決意するほどに人気と魅力を備えていた。
ポルシェが戦い続け、アメリカのメーカー、さらには日本メーカーとも対決するところを見たかった。
アル・ホルバートと深く関わった人々、彼と戦ったライバルたちが没後30年に際してコメントを発しているので、その一部をここに紹介する。
アルはどんなマシンに乗っても速い素晴らしいドライバーで
私にとって理想のチームメイト。そして彼は優れたエンジニアでもあった
――デレック・ベル
*デレック・ベル(ル・マン24時間で5勝。そのうちの1986、1987年はホルバートらとマシンをシェアしての優勝)
「アルは素晴らしいドライバーで、私にとって最も理想的なチームメイトだった。彼はどんなマシンに乗っても速かった。彼は優れたエンジニアでもあった」
「アルは北米ポルシェのモータースポーツ部長を務めながら、インディーカー・チームとスポーツカー・チームを運営し、ポルシェのディーラーも家族のビジネスとして経営していた。もちろん優秀な人材を何人も雇っていたのだろうが、彼はすベてを完全にコントロールしており、顧客のポルシェ・オーナーたちに対してのケアも万全だった。私がしていたのはドライビングだけなのに、彼は本当に多くのことをこなしており、私は自分自身に嫌気が指すことさえあった」
1985年のロスマンズ・ポルシェ962C。ホルバートのル・マン優勝はこの翌年と翌々年 Photo:TB Communications クリックして拡大 |
「あの悲劇があった日の朝、彼は私に新しいスポーツカーの計画があることを打ち明け、8分の1スケールのモデルを見せてくれた。”来年、僕と君がこれをドライブする”と彼は言った。彼はポルシェに”ニッサン、ジャガー、そしてトヨタに対抗するために新しいマシンが必要だ"と進言。それに対してポルシェは、「そのマシンを作るには16ミリオンUSドルがかかるだろう。現在私たちにはそれだけの予算はない」と解答されたが、ホルバートは「その10分の1の資金でやります」と返したそうだ。私に見せてくれたモデルがそのマシンだった。設計はすでに終えられ、コロンバスでのレースの週末に彼は幾つかの会議に出席していた。あの日の別れ際、彼は私に”乾杯!”と言った。しかし、それが彼に会う最後となった」
「私は彼と86、87年のデイトナとル・マンで優勝した。最高の時代だった。アルはあらゆる面で驚くべき人物だった。福音派の経験なキリスト教徒であることも私は気にしていなかった。二人の友好関係は素晴らしいもので、それをおおいに楽しんでいた。とても多くの勝利を共に記録した。彼は本当にすごいドライバーだった。私は日曜の礼拝には行かなかった。若い頃のアルはパーティを楽しむタイプだったそうだが、ジョーイと出会って福音派のクリスチャンになった。彼の死は悲しいことだが、彼について人々がどんな思いを持っていたのか、改めて知ることには意義がある。30年が経過した。彼がモータースポーツの世界に残した功績は大きい。彼は驚くべき人物であり、偉大なるドライバーだった。私は彼のことをそう記憶し続ける」
彼は私を庇護の下に置き、私のキャリアに大きな役割を果たしてくれた
彼が教えてくれたことは今でも私の中にあり続けている
――アル・アンサーJr.
*アル・アンサーJr.(1988、1990、1994年インディーカー・チャンピオン。1992、1994年インディー500ウィナー。1986、1987年にホルバート・ポルシェでホルバートと共にデイトナ24時間優勝)
1984のインディー500にCRCケミカル・マーチ・コスワースで初出場。グリッド16番手からスタートし、決勝4位となる Photo:INDYCAR クリックして拡大 |
「アルは私にとって特別な友人だった。1982年のCan-Amシーズンで私たち二人は最後までチャンピオン争いを繰り広げ、友だちになった。彼は1984年に1年だけインディーカーに出場し、インディー500で4位フィニッシュ。実力の高さを証明した。冬になって彼から電話があり、”デイトナ24時間レースで我々のレーベンブロイ・ポルシェに乗らないか?”と言われた。アルにそんなオファーをしてもらえたのは、とても光栄だった。”もちろん! デイトナに行くよ”と答えた。あそこから私たちの結びつきは強まり、友情はさらに深まった。アルのレーベンブロイ・ポルシェには3年乗った。1985年にはアルと共に5、6レースに出場し、彼のことをより深く知ることにもなった。アルはどの面をとっても偉大な人物だった。敬虔なクリスチャンでもあった。彼は友情の中にある真の愛情を私に示してくれていた」
「アルは私を庇護の下に置き、私のキャリアに大きな役割を果たしてくれた。それはデイトナでの2回の勝利や、その他のレースでの優勝によってだけでなく、彼のチームで走っている間に彼が私に教えてくれたことにあった。当時の私はまだ24、25歳の若さだった。彼が教えてくれたことは今でも私の中にあり続けている。彼は人間としての教育もしてくれた。それだけに、アルが亡くなったと聞いた時は衝撃を受けた。彼は私にとって友人以上の存在だったからだ」
「ポルシェのインディーカーが走り出した時、実は僕もドライバーの候補だった。”2シーズン目はに君に乗って欲しい”と彼は言っていた。”1年目にはマシンのトラブルを洗い出す必要がある”と。チームの装備、マシン、レースに向けた準備、勝利へのこだわり……アルはこれらの面でロジャー・ペンスキーに最も似たタイプのチーム・オーナーだったと思う。クルー、マシン、スポンサーに対するケアも万全だった。彼はル・マンで初めて勝った年、”来年は第3ドライバーとして一緒に走って欲しい”と言ってくれた。しかし私は、”その週末はポートランドでのインディーカー・レースがあるから無理だ”と答えた。するとアルは、”それはわかっているよ。でも、ル・マンで勝てる人生一度のチャンスだぞ。ポートランドはスキップすべきだ”と言った。私は契約上、残念ながらそうすることはできなかった」
アルは常にフェアに戦うドライバーで、非常に速く、強かった
1988年の悲劇は私を本当に失望させた
翌年、私は彼のポルシェ・マーチ・インディーカーに乗るはずだったから
――ボビー・レイホール
*ボビー・レイホール(Can-Amシリーズ、スポーツカー・シリーズにおけるホルバートのライバル)
「アルと初めてレースを戦ったのは1979年のCan-Amだった。1970年代、彼はGT、私はオープンホイールで走っていたため、あまり交流はなかった。その後、彼はホーガンのマシンに乗るようになり、Can-Amのチームを作った。私は1982年からインディーカーで走るようになり、アルはCan-AmでVDSのマシンに乗っていた。そして翌1983年、アルはジム・トゥルーマンとIMSAシリーズで走るようになって、確かチャンピオンになったはずだ」
「トゥルースポーツが2台体制で1984年のインディーカー・シリーズにエントリーし、私とアルがチームメイトとなる。そんな話がまとまりかけていたことは、ほとんど世間に知られていない。83年にIMSAで一緒に走っていた彼らは、そうすると決めていた。しかし、最後の最後でスティーヴ・ホーンが反対し、計画は流れた」
デイトナ24時間レースで2勝したレーヴェンブロイ・ポルシェ962 Photo:TB Communications クリックして拡大 |
「1988年に起こった悲劇は、私を本当に失望させた。翌年、私は彼のポルシェ・マーチ・インディーカーに乗るはずだったから。そのための話し合いを何度もしていた。アルは私にドライブさせたかったのだが、マーチがファビを押し込んだ。もっとも、89年のマシンはそれほど速くなかった。エンジンは非常に優れていたけれどね。ポルシェが最初に投入したインディーカー・シャシーも性能は高くなかった。それでも私にとっては、”ポルシェのインディーカーに乗る”ことの持つ意味はとても大きく、乗りたいと強く考えていた」
ポルシェ・インディーカー……歴史にifがあったなら
ホルバートが生き続け、2シーズン目のポルシェ・ドライバーにレイホールとアンサーJr.を起用していたら、彼らによる長い黄金時代が築き上げられていたかもしれない。その可能性は高い。2年後の1990年にこのコンビはギャレス・クラコ・レーシングで実現したが、1年目にはアンサーJr.が年間6勝してシリーズ・チャンピオンに輝き、レイホールは2位5回でランキング4位。翌91年はレイホールが1勝、2位6回(!)で惜しくもチャンピオンを逃しランキング2位。アンサーJr.も1勝し、ランキング3位だった。リック・ギャレスとモーリス・クレーンズの下で二人はナンバー・ワンの座を争い、2シーズンの後にレイホールがチームを離れた。あれがもし、彼ら二人の深く尊敬するホルバートの下であったら、力を合わせて長く戦い続けることができていたかもしれない。1991年、ホルバートとポルシェのいなくなったCARTインディーカー・ワールド・シリーズで王者となったのは、マイケル・アンドレッティ(ニューマン・ハース・レーシング)だった。
ホルバートのレーベンブロイ・ポルシェは後にミラー・ハイ・ライフ・ポルシェになる。夕陽を反射させてデイトナを走す姿はかっこ良かった。レイホールが乗っていたのはベイサイド・ディスポーザル・レーシングのバド/キング・オヴ・ビアーがスポンサーの。白地に赤のピン・ストライプが良かった。ストローズってビールがスポンサーのリンカーン・マーキュリー・クーガーなんてGTマシンもあったなぁ。近頃、ビールはあんまりレースに出て来てくれてませんが……。
以上
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