Photo:INDYCAR LAT USA |
2012年のインディーカー・チャンピオンとなったライアン・ハンター-レイは、結構な苦労人だ。
フロリダ州の大西洋岸、マイアミとウェスト・パーム・ビーチの間にあるボカ・ラトンという町で育った彼は、1980年の12月生まれだから、もうじき32歳。現在はマイアミ寄りのフォート・ローダーデイルに住んでいる。
ワイフのベッキーさんは、オフロード界の伝説的ドライバー=ボブ・ゴードンの娘。つまり、オフロード、スポーツカー、インディーカー、ストックカーのすべてで活躍したロビー・ゴードンの妹。彼女自身もレース経験がある……というか、今年のパイクス・ピーク・ヒルクライムに出場していたから、いまだに現役レーサー。二世が生まれたら、やっぱりレースの世界へ……ってことになるんだろうなー。
ハンター-レイの趣味は、ゴルフ、サーフィン、スノーボード、シー・ドゥー(水上バイクの一種)、スクーバ・ダイビング、フィッシング……と思いっきりフロリダしていて、バブル的な匂いが漂う。苦労人と書いたけど、苦労したのはレーサーとしてのキャリアでだけなので。
子供時代にカートに熱中、ナショナル・チャンピオンにもなってフォーミュラ・ダッジ、バーバー・ダッジ、フォーミュラ・アトランティックを経て四輪のトップ・カテゴリーへ。トントンとそこまではかなり順調だった。しかし、トップに上がるタイミングは良くなかった。アメリカのオープンホイール・レースは、チャンプカー・シリーズとインディー・レーシング・リーグに分裂して、かなりの低迷期となっていたから。
チャンプカーでは、ルーキーイヤーから目覚ましい活躍をみせたが
それでも2003年、彼はチャンプカーにチーム・ヨハンソンから出場することができた。当時のIRLはオーバル専門シリーズだったので、ロードレース主体でオーバルもやるチャンプカーを選ぶのが彼にとってはロジカルだったかもしれない。でも、時代はこの年からIRL優勢へと一気にシフト。この時にチャンプカーを選んだ面々は、後々苦しい目に遭うことになる。
ハンター-レイはルーキー・イヤーに初勝利を挙げた(@サーファーズ・パラダイス)。いくらペンスキーやガナッシ、グリーンといった強豪チームがIRLへと引っ越してしまった後だとはいえ、ニューマン-ハースやフォーサイスが頑張っている中で勝ったのはちょっとした快挙だった。
2004、2005年も彼はチャンプカーで戦い、ミルウォーキーの1マイル・オーバルでキャリア2勝目を記録した。ところが、2006年を前にシート喪失の憂き目に遭う。チャンプカーの存続が危ぶまれ、出場チームの経営状況もそれに影響されて悪化して行き、スポンサーを持ち込まずにシートを確保するのはとても難しくなっていた。
2007年、レイホール・レターマン・レーシングからIRLへ
浪人が1年半も続き、「もうトップ・オープンホイールへの復帰は諦めるしかないのか……」と考えていたハンター-レイのところへ、突然チャンスは舞い込んで来た。2007年の夏、パフォーマンスの上がらないジェフ・シモンズの後任として、レイホール・レターマン・レーシング(RLR)がハンター-レイにIRLへの出場をオファーした。
インディーカーへのデビュー戦となったミッド・オハイオ・スポーツ・カー・コース、ハンター-レイは予選10位から7位でゴールし、続くミシガンの2マイル・オーバルでは予選12位から6位フィニッシュ! 参戦5戦目のデトロイトでは予選で5位に食い込み(決勝はトラブルでリタイア)、最終戦シカゴランド(1.5マイル・オーバル)で二度目の7位フィニッシュと6戦で3回のトップ10フィニッシュという好成績を残した。与えられたチャンスを見事に活かしたのだ。
またしても繰り返すシート喪失の危機
08年、ハンター-レイはRLRからインディーカーにフル出場し、ワトキンス・グレンで初勝利。インディー500での6位を含め、トップ10フィニッシュを10回も記録して年間ランキング8位につけた。これでハンター-レイのインディーカーでの足場は盤石と見えていたが、思わぬところに落とし穴が。2009年シーズンに向け、RLRがスポンサーを十分確保できず、またしてもハンター-レイはレギュラー・シートを失うこととなった。
勝てるドライバーであることは実績が示す通り。しかし、ハンター-レイの知名度は上がって行かなかった。長身だが、寡黙……ハッキリ言えば地味で、スター性が感じられなかった。それでも、捨てる神あれば拾う神あり。トニー・ジョージ率いるビジョン・レーシングが開幕からの6戦に彼を出場させることになった。そして、ハンター-レイはここでまた期待に応えて見せた。開幕戦セント・ピーターズバーグで2位入賞。シーズン半ばからの11戦へはAJ・フォイト・エンタープライゼスからエントリーする話が後に決まった。実はコレ、インディーカー・シリーズがアメリカ人ドライバーである彼の参戦を援助したのだった。
ハンター-レイはフォイトのチームでも奮闘、トロントで7位、ミッド・オハイオで4位フィニッシュした。チームのレベルを考えれば、大健闘だった。
2009年のシート喪失を免れたばかりか、全17レースへの出場をハンター-レイは果たした。しかし、彼は参加することに意義を求めているワケではなかった。「レースで勝ちたい」、「チャンピオンになりたい」と考えていた。
命運を変えたマイケル・アンドレッティとの邂逅
2010年、ハンター-レイはまたシート喪失の危機にあった。しかし、幸いにもそうはならなかった。彼の長年の苦労がついに報われる時が来たのだ。2007年からの彼のパフォーマンスをちゃんと見ていたチーム・オーナーがいた。数少ないチャンスを着実に活かして来た彼の実績をマイケル・アンドレッティが認め、彼のチームに招いた。
2010年、ハンター-レイはマイケルの期待に応え、ロング・ビーチで優勝! これは2009年に優勝ゼロだったチームを大喜びさせ、活気づけもした。
2011年に向けては、チームのスポンサー不足からリーダーのトニー・カナーンが放出された。4人のドライバーの中で最年長のハンター-レイにはリーダーシップが望まれる状況となったが、ニュー・ハンプシャーの1マイル・オーバルで優勝してその任を果たした。これでハンター-レイは3シーズン続けて1勝ずつをマーク、勝てるドライバーとしての評価をさらに一段アップさせた。
2012年、新シャシー導入とエンジン競争勃発でインディーカー・シリーズは新たな時代を迎えた。そこにアンドレッティ・オートスポート、そしてハンター-レイに対するチャンスはあった。チップ・ガナッシ・レーシングはコースによってシャシー・セットアップで苦しみ、チーム・ペンスキーは作戦面など、チームの総合力で弱さを露呈した。
無骨なファイター、ハンター-レイ
ハンター-レイは第8戦ミルウォーキーをランキング7位で迎え、2012年シーズンの初勝利を挙げた。これでポイント・ランキングは4位へと浮上。次戦アイオワでもハンター-レイは優勝。これでキャリア初の1シーズン複数勝利の達成がなった。そして次のレース、トロントでも彼は勝った。これで3連勝! ランキングトップに躍り出、優勝数もウィル・パワーに並んで最多になった。
キャリア初めて同じチームでの3シーズン目を戦ったハンター-レイは、念願のシリーズ・チャンピオンの座へと駆け上がった。人前ではシャイなところを見せる彼は、会見などでの受け答えは若いチームメイトのジェイムズ・ヒンチクリフの方がこなれているぐらいで、アメリカ人ドライバーでありながら、アメリカ人らしくない「男は黙って……」というタイプのドライバーだ。最終戦フォンタナの戦いぶりは、まさに彼のドライバーとしてのキャラクターを現れしていた。目標に強くフォーカスし、しつこく、しつこく最後まで戦い抜く。黙々と勝利を目指すファイターだ。
最終戦を前にアンドレッティ・オートスポートと2年契約を結んだハンター-レイ。同チームでのトップ・カテゴリー参戦をさらに2シーズン伸ばすことになるのだ。初タイトル獲得で大きな自身を手に入れた彼は2013年、さらに強いドライバーとなる可能性・大だ。
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