2011年7月3日日曜日

2011 INDYCAR レースアナリシス 第8戦 アイオワリザルトコーン インディ250 パート3:ディクソンにとって23番手スタートは「勝機あり」。戦略を見事に当てたチップ・ガナッシ・レーシングの戦い

ディクソンがアウト側からメイラをパス。
Photo:INDYCAR(Chris Jones)
 アイオワでの予選、スコット・ディクソンは最初のアタッカーだった。
 コースインしてウォームアップ・ラップ。ここで彼のマシンは大きくリヤが滑った。アクセルを戻してクラッシュは回避したが、加速には完全に失敗。しかもアタック1周目にも派手なオーバーステアがもう一度出た。散々なアタックでディクソンの予選順位は23位と決まった。シモーナ・デ・シルベシトロ(HVMレーシング)が体調の問題からレースを欠場し、セバスチャン・サーベドラ(コンクエスト・レーシング)は原因不明のハンドリング不調によって予選出走を取りやめていたので、この日グリッドを競ったのは24台だけ。その中での23位はブービー賞で、自己ワーストタイでもあった。

 後方のグリッドからスタートする場合にはトラフィックでのマシンの安定が欲しいため、ダウンフォースは強目に設定せざるを得ない。しかし、安定感ばかりに重きを置くと、今度はクリーンエアを浴びて走れる状況でトップスピードが伸びない。後方スタートでも優勝争いを目指すなら、ダウンフォースはつけない方向で行くしかない。不安定なマシンでポジションを上げて行くために、ドライバーは経験と技を最大限に発揮してリスクの高い戦いに臨む。
 ディクソンのファースト・スティントは、アレックス・タグリアーニ(サム・シュミット・モータースポーツ)とマイク・コンウェイ(アンドレッティ・オートスポーツ)とのバトルに終始した。ポジションは18位と20位の間。そして迎えた1回目のピットストップ、チップ・ガナッシ・レーシングの実力が発揮された。ピットで一挙に6人抜きが達成された。

 その後のリスタートでアナ・ベアトリス(ドレイヤー&レインボールド・レーシング)とビットール・メイラ(AJ・フォイト・レーシング)をパスしたディクソンの順位は12位まで浮上。ピットストップ1回の時点で早くも半分より前に来ているんだからさすがである。
 ディクソンがジャスティン・ウィルソン(ドレイヤー&レインボールド・レーシング)を抜いて11位に上がった直後の45周目、少し前までディクソンがポジションを争っていたコンウェイとベアトリスがクラッシュした。

 このフルコースコーションは長いものになった。1回目のピットストップをしたのが26周目だから、まだ20周も経過していない。フルタンクで90周は優に走れるコースで、しかも、給油の後にレースが再開されるまでにペースカーランが6周もあった。ここはピットに入るか、ステイアウトするかの判断が難しかった。
 61周目、リスタートの接近を知った出場者の中からピットロードに向かったのは10台だった。トップグループがステイアウトしたので、異なる作戦を採用して勝機を見出そうというのだ。先陣を切ったのはオリオール・セルビア。ニューマン・ハース・レーシングはこの手の作戦に積極的だ。セルビアは6位という好位置を捨ててのピットへ滑り込み、ポジションは11位に下がった。しかし、彼の前を走る10台は全員が燃料を少なく積んでいる状態。この後のレース展開が味方してしてくれれば一気に優勝候補となれるところだった。

 ここでディクソンのピットは彼をピットへと呼び入れず、順位は8位に上がった。ピットで陣頭指揮を執るチップ・ガナッシ・レーシングの名参謀、マイク・ハルの判断だ。自分たちのドライバーの力量やマシンの仕上がり具合を考えれば、まだレースは序盤であることだし、奇襲に出る必要はない……といったところだろうか? ライバル勢の中から誰がピットに入り、誰がステイアウトするのか? スポッターからの情報や無線の傍受で情報を集め、動向を見極めることもしただろう。その結果、ディクソンの前から姿を消したのはセルビア、ダニカ・パトリック(アンドレッティ・オートスポーツ)、ライアン・ハンター-レイ(アンドレッティ・オートスポーツ)の3人。オーバーテイクをそう易々とさせてくれない面々だった。
 そして、ステイアウト作戦は見事成功する。91周目にウィル・パワー(チーム・ペンスキー)がクラッシュ。ここで全員がピットに入り、燃料搭載量の差は帳消しとなったのだ。

 自分の前を走るマシンの数が減り、ディクソンの走りは勢いを増し、ゴールまで40周を切ったところでチームメイトのダリオ・フランキッティをもパス。オーバーテイク・ボタンを連続使用して突き放し、スタートから20個ものポジションアップをして3位、表彰台に手を届かせた。
 ディクソンの予選が23位という位置だったのは、過去にも一度あった。2001年のことだ。コースはペンシルベニア州の1マイル・オーバル、ナザレス・スピードウェイだった。ディクソンがキャリア初勝利を、20歳と9カ月という当時の最年少記録で達成した時のことだった。そんなこともあって、23番グリッドからのスタートであっても、ディクソンの心は若干軽かった。良いことが起こりそうな予感があったのだ。

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